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居留地が貿易業務、元町に商店街

 1881年の神戸市街は次のようになっています(返還以後の神戸外国人居留地 : 明治後期から大正期を中心に/第2図神戸市街地図(1881年))。

 川を境に、次のような区域に分けることができます。
居留地 (赤線で囲んだ区域)東は生田川、西は鯉川、北は西国街道
雑居地 (オレンジ線で囲んだ区域)東は生田川、西は宇治川、北は山麓
空白地 (青線で囲んだ区域)東は宇治川、西は湊川
兵庫津 (緑線で囲んだ区域)東は湊川
その他 生田川以東、湊川以西
 それぞれの区域の特徴は次のようになります。
居留地 貿易業務機能:運上所(税関)、銀行、運輸業、保険業、ほかに製紙工場や製茶工場
雑居地 元町通り商店街、南京町、栄町通りに銀行や保険会社
空白地 湊川神社(1872年)、遊郭、神戸駅(1874年)、県庁舎(1968〜73年)
兵庫津 旧来の港町、開港時の人口2万人
その他 後に労働者向けの低廉な住宅を提供
 開港後の神戸では、居留地の商館が貿易業務を担い、それに付随して、銀行、運輸業、保険業も営み、ほかに製紙工場や製茶工場なども建設され、居留地周辺は多彩な機能を有する中心街を形成して行きます。
 「しかし日用買回り品など、小売業の集積の余地が居留地内に無かったため、それを補完するように居留地周辺に商店街の『元町通り』が形成」されました(返還以後の神戸外国人居留地 : 明治後期から大正期を中心に、4ページ)。また、中国人(清国人)は、居留地に隣接した雑居地に集まり南京町を形成します。なお、地図に三宮駅とあるのは、現在の元町駅です。
 雑居地と兵庫津に挟まれた区域は一種の空白地でした。ここに、湊川神社が創建され、神戸駅も開設され、市街地が形成されていきます。

山手側に住宅用地
 1868年1月1日の開港時には、居留地整備は間に合わなかったので、外国人が雑居地で借地、借家するのも認められました。 外国人の借地、借家は次のような状況となっていました(明治初期の神戸「内外人雑居地」における外国人による土地取得の推移と日本人による都市整備過程)。海手側では借家が多く、山手側は、ほとんどが借地です。海手側では業務用に家を借り、山手側では住宅用に土地を借りたものと思われます。居留地の整備が進んだ1883年時点では、海手側雑居地の海岸隣接地区での借家は大幅に減少しています。なお、山手側の借地は転売用の投機目的のものが多かったそうです。

雑居地に住居が広がる

 1900年時点の外国人分布は次のようになっています(外国人居留地の構造)。居留地を中心に、雑居地に住居が広がっています。関帝廟の記載があることからすれば、このグラフの外国人には中国人も含まれているのでしょうか。


県知事が元町通に改称
 元町通の名称について、元町マガジンは次のように説明しています。
 元町商店街は、その発足を明治7年(1874)5月20日、当時の県知事であった神田孝平が、南北に分けられていた神戸の大手町・濱町・札場町・松屋町・中町・西町・城下町・東本町・西本町・八幡町を東西の横軸に分断する形で元町通・栄町通・海岸通・南長狭通と改称した日、としてきた。
 一方、神戸公式観光サイトFeelKOBEは次のように説明しています。
1874年に「神戸のもとの町」という意味から「元町」と命名され140年の歴史を持ち、隣接する南京町とともに神戸の都心商業地となりました。
 これに対して、元町マガジンは次のように反発しています。
 元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。
 住民の声を聞くということもなく、あっさりと、一方的にきめてしまった。もとのまちといわれれば、全くそのとおり、と答えざるをえない。住民投票にかけられたにしても、反対のしようもない町名であったともいえる。
 栄町通や海岸通も「神戸のもとの町」なのに、元町通だけがなぜ「もとの町」なのか、少し疑問も感じます。もっとも、元町通は西国街道を通っていて、神戸町の元になった神戸・二ッ茶屋・走水三村は西国街道沿いに発展してきたことを考えれば、元町通が「もとの町」と言えなくもないのかもしれません。
 いずれにしても、当時の神田知事がどのような理由で命名したのか、具体的史料により立証できなければ、「よく分からないが」という前提で推論するほかなさそうです。

もっとも多い町名は「本町」
 全国の市町村で、もっとも多い町名は「本町」で、2番目は「栄町」で、「元町」は11番目です(最も多い町名は「本町」)。本家本元という意味で、「本町」という地名が好まれるのかもしれません。

 横浜の関内の日本人街でも、「本町」の地名が使われていました。神戸の海手側雑居地でも、東本町・西本町という地名が使われていたということですが、南北に分けられていた各町を、東西の横軸に分断する形で改称するにあたって、すでに使われていた「本町」は避けたのかもしれません。そして、横浜では、元町は外国人向け商店街となっていたので、神戸でも同様の性格を持ちつつあった商店街を「元町」と名付けた可能性はありそうです。

3つの百貨店が競合
 神戸の海手側雑居地の現在の様子は、次のイラストのようになっています(オシャレ神戸元町 みなと元町スイーツマップ )。レンガ模様の通りが、元町通で、かつて西国街道が通っていました。地下鉄海岸線が通っているのが、栄町通りです。昭和に入って、元町通西に三越百貨店、元町通東に大丸百貨店、三ノ宮駅前にそごう百貨店が支店を開設し、3つの店舗が競い合う状態が続きます。

 次の左の写真は、1911年当時の元町1丁目の様子です。右は現在の様子です(5:文明開化を象徴する「元町」 〜 神戸)。東端から西へ、元町通をのぞんでいます。昔の写真にはローマ字の看板があるのが、ハイカラだと言えそうです。現在はアーケード街になっています。


三越神戸店は1984年に閉店
 1926年、元町通の西端にあった元町デパート跡(現在のハーバーロードと栄町筋の交差点北東角、鉄筋コンクリート地下1階地上6階建て)に、三越百貨店が神戸支店を出店しました(戦前神戸の百貨店 元町デパートを中心として)。次の左の写真は、西側から元町商店街の西側入り口を眺めたものです。正面に見えるのが三越神戸支店で、そのすぐ左が元町商店街の入り口となっています。右の写真は現在の様子です。三越神戸店は1984年に閉店し、跡地にはマンションが建っています。写真の右端に見えるのが、そのマンションで、すぐ左が元町商店街の西側入り口(赤線で囲んだ部分)となっています(5:文明開化を象徴する「元町」 〜 神戸)。

 元町商店街の西側入り口(赤線で囲んだ部分)付近を上から眺めると次のようになります。商店街の店は中高層マンションへの建て替えが進んでいます。

 西側入り口から元町商店街を眺めると次のようになります。ビルの1、2階は店になっていて、アーケードがあるので、中高層ビルが並んでいることに気付きません。定食屋、八百屋、ドラッグストアが並んでいて、付近住民のための地元商店街といった趣(おもむき)です。


大丸神戸店は、震災で損壊、建て替え
 1927年には、元町商店街東に、大丸百貨店が、鉄筋コンクリート造8階建の神戸店を開店しました(【1939年】神戸(昭和14年)▷横浜正金銀行神戸支店・大丸神戸店)。

 大丸神戸店は、阪神淡路大震災(1995年)で東側部分(青線で囲んだ部分)が大きく損壊しました。それ以外の店舗で営業を再開し、1997年に東側部分の建て替えが完了し、全面オープンしています。図は上が南方です。


そごう神戸は神戸阪急に
 1933年、阪神電鉄が三宮駅を地下化し、地上に7階建てのターミナルビルを建設しました。そのテナントとして、そごう百貨店が神戸店を開店しました。そごう神戸店は2017年、阪急阪神百貨店を傘下に置くエイチ・ツー・オーリテイリングに譲渡され、2019年、屋号が神戸阪急に変更されました。次の左の写真は、開業当時のそごう神戸店です。三宮周辺は、まだ開発が進んでなくて、そごう神戸店がそびえ立っています。右の写真は、現在の神戸阪急です。そごう神戸店は、戦後増築され、阪神淡路大震災では増築部分が損壊しましたが、開業時の建物は当時のまま残っています(「生田神社」と三宮周辺)。写真は、北から南の海側を望んでいます。

 そごう神戸店の震災から間もないころの様子は次のようになっていました(震災記録写真(大木本美通撮影)7年間でこう変わった:定点写真版三宮周辺三宮そごう)。増築部分の損壊は外部からは目立ちませんが、内部はかなり傷んでいたので、損壊部分を削り取る作業が行われました。震災により内部が倒壊したわけではありません。

 次の写真は、損壊部分を削り取るため、外側の装飾パネルを取り外したころのものと思われます(震災前の神戸 その3 - 近代建築撮影日記)。右側建物は阪神電車が1933年に建設したターミナルビルです。左は、1966年に建てられた、さくら三宮ビル(建設当時は三宮室町殖産ビル)で、そごう百貨店が室町建物から賃借し、1968年と1975年に増築大拡張を行ったということです(三宮センター街三十年史)。震災前の神戸 その3 - 近代建築撮影日記では、「右からS8竣工の阪神三宮ビル、S41竣工の正面自社ビル、左はさくら三宮ビル。正面に見える自社ビル部分のみ撤去建替」と説明しています。なお、室町建物株式会社のページでは、さくら三宮ビルは「区分所有」となっています。
 時期は不明ですが、化粧パネルでおおわれる前の3つの建物の様子は次のようになっていました(〈追記〉そごうグループ全52店舗(破綻前): 黒崎そごうメモリアル)。

 神戸阪急の内部は次のようになっています(フロアガイド 5F|神戸阪急)。3つの建物は内部でつながって一体化しています。損壊して削り取られたのは入り口の部分だけのようです。阪神電車のターミナルビルは、築90年近くになります。ただし、建て替えるなら、3つの建物を同時に行う必要があると思われるので、調整に手間取りそうです。しかし、阪急阪神百貨店は2020年5月12日、約80億円を投じて、神戸阪急の全館営業面積の約90%をリモデルすると発表しましたから(神戸阪急/約20年ぶりの全館改装「Hankyu Mode Kobe」など新設) 、当面建て替えの計画はないようです。