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★港 / 開港 sitemap 幕末の動乱の最中の開港 神戸開港150年のあゆみの年表を参考に、神戸開港の経緯をまとめると次のようになります。なお、年表では鳥羽・伏見の戦いに触れていないので、そのデータを追加しました。年月日は上が新暦で下が旧暦です。
ところが、1868年1月27日、鳥羽・伏見の戦いが始まり、幕府軍は敗退し将軍徳川慶喜は、海路、江戸へ逃れ、それを知った兵庫奉行も江戸へ逃れたため、神戸港の管理は新政府に移ります。 居留地の建設は開港には間に合わず 1868年の居留地周辺は次の地図(古地図・鳥瞰図に見る開港当初・昭和初期の神戸)のようになっています。「当時の神戸外国人居留地は、東西に約500m、南北に約500mの狭い地域でした。東はIkuta River(現在のフラワーロード)、西は鯉川(Koikawa Street)、北は旧西国街道、南は海岸」(旧居留地の歴史)ということです。地図の右下の太い道路が交差している区域が居留地で、その西側の細かく区割りされている区域は、神戸村、二ツ茶屋村、走水村の集落です。しかし、居留地の建設は開港には間に合わず、1868年9月から1873年まで4回の競売により、永代借地権が売却され、商館の建設が始まりました。したがって、地図の外国人居留地は、区割りが決まっていただけと思われます。 ![]() |